エッセイ

2022

川俣正さんと仙台インプログレス:「記念・祈念」から「伝承」、そしてその先へ

 旧北上川河口から阿武隈川河口までをつなぐ貞山運河は、慶長2(1557)年から明治17(1884)年にかけて建設された日本最長の運河(総延長約46.4キロメートル)です。2022年8月、ここに一日限りの橋が架けられました。
宮城県仙台市宮城野区新浜地区を流れる貞山運河に、東日本大震災の津波で流された橋がじつに11年ぶりに「船橋」として再建されたのです【図1】。これは、アーティスト・川俣正さんが手がけるアートプロジェクト「仙台インプログレス」の一環として実現しました。

図1 川俣正《みんなの橋(テンポラリー)》小田原撮影

 船を並べてつなぎ、その上に板を渡して橋の代わりとする船橋は、洋の東西を問わず古来用いられてきた技術です。98-117年頃につくられ、後世の記念柱の形式に決定的な影響をもたらした「トラヤヌスの記念柱」のレリーフにも、船橋の姿を認めることができます【図2】。日本において船橋は、現存する最古の和歌集・万葉集に詠まれているほか、日清戦争を描いた梅翁国利の錦絵にも記録されています【図3】。

図2 トラヤヌスの記念柱に刻まれた船橋のレリーフ ウィキペディア・コモンズ
図3 梅翁国利《我陸軍工兵大同江ニ船橋ヲ造リ敵ノ対岸ニ至ル 日本兵大勝利之図》1894年 国会図書館蔵

 2017年から始まった仙台インプログレスは、時間を掛けた取り組みとして現在も継続され、6年目を迎えます。新浜地区の人々からの「橋が津波で流されて運河を渡れなくなった」という切実な意見に端を発し、貞山運河に橋を掛けるという着想が「みんなの橋プロジェクト」となりました。

 川俣正さんによるみんなの橋プロジェクトは「みんなの家」に由来します。震災直後に5人の建築家によるボランティア団体「帰心の会」によって提案され、伊東豊雄さん、妹島和世さん、山本理顕さんらが中心となって被災地に建設されたみんなの家。その第一号は2011年10月に仙台市宮城野区内の仮設住宅に造られ、2017年4月に「新浜みんなの家」として移築し、いまも地域コミュニティの回復や住民の活動拠点として活用され続けています。

 みんなの橋プロジェクトは仙台インプログレスの核を担います。しかし、事はそう簡単ではありませんでした。以前の橋は住民の手で架けられた生活のためのものだったこともあり、貞山運河への恒久的な橋の建設は難しく、みんなの橋プロジェクトは多様な展開を経験することになります。

 2018年には貞山運河の渡し船ともなる《みんなの船》がつくられました。2019年には貞山運河から海側に広がる防災林に《みんなの木道》が設置されます。この木道は、海難防止と海上安全を祈願するために建立された「八大龍王碑」を見るためのベンチとしての機能も持っています。加えて、木道の先に建立された、昭和期の植林事業を記念する「愛林碑」への動線ともなり、「愛林碑」と「八大龍王碑」の2つの石碑が伝えるこの土地の歴史に橋を架けました。

 翌年、《みんなの木道》は貞山運河から内陸の地区にも延長され、運河をはさんで両側を水平の視点でつなぎました。2022年4月には、垂直の視点として、貞山運河の松林や湿地、堤防と水平線を眺めることができる物見櫓《新浜タワー》が完成します。そしてついに念願であった橋が運河に架かりますが、船を用いて橋にする発想は工法も含め、川俣さんと川俣さんのチームと、新浜地区の住民のみなさんとの対話の中から生まれています。

 2021年から、私は仙台インプログレスの様子を見学させてもらいました。見学に訪れた最初の数回は、パリ在住の川俣さんはコロナ禍で来日がかなわず、リモートでの作業が続いていました。そんななか印象深かったのが、このプロジェクトのキーパーソンとしての新浜地区の方々の存在です。

 貞山運河では、新浜地区の方々が主催する「新浜フットパス」というイベントが定期的に実施されています。毎回、遊び心にあふれた新浜フットパスは、せんだいメディアテークが主催する仙台インプログレスと連携しつつ、独自のイベントとして開催を重ねています。仙台インプログレスを支援するとともに、新浜フットパスに全力で取り組む新浜のみなさんの姿は、「アーティストが主導するアートプロジェクトに参加する地域の人々」というステレオタイプを刷新する力にあふれていました。

 日本を代表するアーティストのひとりである川俣さんは、1980年代からアートプロジェクトに取り組む草分け的存在です。完成された作品という結果だけではなく、アーティストがあらゆる物事と関係を結びながら進行していく過程を重視するアートプロジェクトは、美術館に収蔵される作品を主体に紡がれてきた美術の歴史にとって、まさに画期でした。

 他方、その後の日本におけるアートプロジェクトは、行政主導の地域活性化の取り組みとも密接に関わりながら、各地で林立します。ともすると住民参画・地域おこしという目的ばかりが先行し、その意義が形骸化しているのではないかと批判にさらされることもあります。しかしながら、新浜地区を舞台にした仙台インプログレスの展開は、そのような批判をものともしない内実を備えていました。

 この度完成した船橋は、《みんなの橋(テンポラリー)》と名づけられました。橋を架けることは、多様な比喩としてわれわれの文化の中に息づいています。17世紀につくられた狂言に「橋が無ければ渡られぬ(なかだちがなければ物事はうまく運ばない)」という台詞があるように、架け橋という言葉は双方を取り持つことや、分断された関係性を再構築する文脈でも用いられます。

 だからこそ、川俣さんの《みんなの橋(テンポラリー)》は、津波で壊れてしまった橋をつくりなおすプロジェクトというだけにはとどまりません。絶たれた回路をつなぎなおし、津波や地震という天災と人の営みとの関わりに、今一度橋を架けるものだと言えるでしょう。そして同時に注目したいのが、船橋が持つ歴史です。

 トラヤヌスの記念柱に刻まれた船橋は、第一次ダキア戦争(101~102年)においてローマ帝国軍がダキア人を攻めるため、ドナウ川を渡る際に用いられたものです。また、梅翁国利の錦絵は、朝鮮半島北西部を平壌へと流れる大同江を舞台とした戦闘における船橋の活用を描いています。

 船橋は、古代から軍事活用とともにありました。近年では、イラン・イラク戦争、ロシアによるウクライナ侵攻においても、船橋は技術として重用されています。そのような人間と船橋の歴史の先端にある《みんなの橋(テンポラリー)》は、2022年というこの時期に完成したことでいっそう、破壊や略奪ではなく分断を架橋し、橋を架けることの本来の可能性を示したように思えます。

 そしてもうひとつ、仙台インプログレスの解釈の可能性を指摘したいと思います。

 日本列島周辺での観測史上最大となる大地震、東北地方太平洋沖地震が発生した2011年3月11日14時46分から11年が経ち、3.11の実相を記憶するため、被災地には数多くの「震災伝承施設」がつくられました。震災の爪痕がいまだに残る土地も多いなか、震災遺構を保存・活用するものや、アートプロジェクトの手法を取り入れるもの、現代アート作品を配したものなど、各施設には工夫が凝らされ、伝承の模索が試みられています。

 ところで、東北地方太平洋沖地震が東日本大震災と呼ばれるのは、大震災が「大きな地震による災害」を意味するからです。東日本大震災とは、東北地方太平洋沖地震が引き起こした津波、そして原発事故による災害の総称です。現在(2022年10月時点)、震災伝承施設は309ほどあり、国土交通省が推進する「3.11伝承ロード」の構成要素となっています。しかし、そのほとんどが津波被害に焦点を当てたものであり、原発事故とその実相や被災者の経験を取り上げる施設は管見の限り、0.1%に届きません。

 個別の震災伝承施設において、津波被害の伝承が重視されるいっぽうで、同じく東日本大震災によって起こった原発事故の被害と被災者の個別の経験や苦しみの伝承は、どのようになされるのでしょうか。放射能という見えない被害にさらされた人々の経験はいかに伝承できるのでしょう。「震災伝承」の名のもとで隠れてしまったものを丁寧に見つめる必要があるのではないでしょうか。

 また、「伝承」が強調される風潮に関して、ある事実を無視することはできません。それは、震災伝承施設のほとんどが、「伝承」の英訳にmemorialを当てていることです。例えば、津波により甚大な被害を被った宮城県気仙沼向洋高校の校舎を利用した「気仙沼市 東日本大震災遺構・伝承館」の英訳は、Ruins of the Great East Japan Earthquake Kesennuma City Memorial Museumです。

 また、「東日本大震災・原子力災害伝承館」は、震災伝承施設の中では数少ない「原子力」を施設名に冠した伝承施設ですが、英語ではThe Great East Japan Earthquake and Nuclear Disaster Memorial Museumと表記されます。

 では、これまでmemorialが当てられた国内の施設にはどのようなものがあったのでしょうか。代表的な施設を以下に挙げます。

  広島平和記念資料館 Hiroshima Peace Memorial Museum
  広島平和記念公園 Hiroshima Peace Memorial Park
  国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館 Nagasaki National Peace Memorial Hall for the Atomic Bomb Victims
  沖縄県平和祈念資料館 Okinawa Prefectural Peace Memorial Museum
  阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター The Great Hanshin-Awaji Earthquake Memorial. Disaster Reduction and Human Renovation Inst

 ここからわかるのは、3.11以前、メモリアルの訳語は「記念」あるいは「祈念」であったということです。震災伝承施設の普及以降、「伝承」が訳語として使われるようになっていきます。つまり、東日本大震災を経て、メモリアルの意味合いが「記念・祈念」から「伝承」へと転じたのです。この変化は日本という国にとって、小さくない意味を持っているはずです。その意味を問うための手掛かりが、仙台インプログレスにあるのではないかと考えます。

 被災地を舞台としたアートプロジェクトの中でも、仙台インプログレスは類例のない取り組みです。中長期的な期間が設定され、過程に重きを置くアートプロジェクトならではの実験が行われています。それは、被災した土地の記憶や人々の経験と、その伝承の模索であると同時に、伝承という結論ありきではなく、絶たれた歴史や文化の創造的回復を通じ、伝承への回路をつないでいくための実践だと言えるのではないでしょうか。

 「みんなの橋」の呼び水である《みんなの木道》を初めて歩いたとき、この木道がまるで鈴木春信による《見立伊勢物語(八つ橋)》のように見えました【図4】。鈴木春信は、伊勢物語に描かれた男たちの望郷の逸話を本歌取りし、「見立て」の手法によって女性の物語に変えてしまいました。

 仙台インプログレスにより実現した船や木道や船橋は、渡し船や、ある地点からある地点へとつなぐもの、運河を渡るものというように、明確な機能を持っています。同時に、「愛林碑」と「八大龍王碑」をつないだように、川俣さんの取り組みは場所だけではなく時間をもつなぎます。そしてまた美術作品としての木道や橋や物見櫓は、本来の機能を超える「見立て」の力を備えています。

 新浜地区との関わりを起点に、「仙台インプログレス」の貞山運河のほかの地区への展開が試みられています。具体的には、若林区荒浜地区、井土地区との関わりの模索が始まっているそうです。とはいえ、新浜地区と荒浜地区、井戸地区の事情は大きく異なります。

 荒浜地区は、津波の危険により住宅の新築や増改築を制限する「災害危険区域」に指定されたため、もう人が住むことはできません。住民を強制的に移住させる「復興」のあり方を問い続けた元住民の方々によるグループは、2018年に解散が報じられました。

 井戸地区については、『河北新報』2022年7月24日に「仙台沿岸の津波被災地、広がる復興格差 現地再建地区の世帯数激減、荒廃続く」と報道され、 若林区井土地区の世帯数が震災前の1割に減り、住宅跡地が荒廃している現状を、津波被災地における「復興格差」として伝えています。

 状況の異なる地域、そして復興の内実の差異を、貞山運河はつないでいます。だからこそ、川俣さんが新浜地区のみなさんとともに貞山運河に渡した橋や添えた道は、「見立て」の力によりまだ見ぬ未来を架橋する存在ともなるのです。あの木道の、あの船橋の先に、震災とメモリアルをめぐる新たなあり方が、記念・祈念すること、伝承することのさらに先にあるものが、見えるのではないかと思えるのです【図5】。

図4 鈴木春信《見立伊勢物語(八つ橋)ルビ:みたていせものがたり やつはし》江戸時代・18世紀 東京国立博物館蔵
図5 川俣正《みんなの木道》小田原撮影

小田原のどか(彫刻家、批評家)
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